Fairy Tale １
痛みは、既に麻痺していた。
体も、心も。
ただ、揺すり上げられる衝撃が、気持ち悪いなと思った。
昨年乗った軍艦が、嵐に遭った時に似ている。
あの時は、それでも意地と責任感で甲板を走り回ったけれど。
今は、そんなものももうないから。
ただ、されるがままに、揺すられる。
「まだ生きてんぞ、凄ぇな」
「やっぱあれホントかな。妖精と混血って話」
「その分いっぱい楽しめんじゃん」
「別に俺は、突っ込めりゃ死体だってかまわないぜ？」
「悪趣味だなぁおい」
「冷てぇの嫌だけど、あったかいうちならいいかも。どーせもう反応ないんだし」
「そりゃそうだ」
突かれるたびに跳ね上がっていた体も、もうそんな反応も返さなくなった。
後は、朽ちていくだけだ。
遠くで、鐘の音が聞こえる。
「ああ？もう時間だ」
「え、何。まだ楽しめんのに」
「しょうがねぇだろ。下手すりゃまとめて放り込まれんぞ」
「そりゃ勘弁だよな・・・」
背中で、じかにずるずると音がした。
しばらく続いたそれが、唐突に止んで。
浮遊感。
そして、衝撃。
不思議と、意識は落ちずに。
アスランは、岩石が剥き出しになった洞窟の天井と、自分が落とされた穴を、ぼんやりと見上げていた。
あれは、罪人の死体を投げ込む穴だ。
此処は、その肉を食らう獣の檻だ。
俺はもう、死んでいるんだな・・・・
それなら。目を開けているのはおかしいかも知れない。
そう思って、見開いたままだった瞳を閉じようとした、その時。
不意に、視界が遮られた。
見えたのは、赤い色。
ああ、獣の目の色だ。
罪の血肉を食った赤い色。
俺を、食ってくれる赤。
アスランは、思わず微笑んで、その赤に手を伸ばした。
腕に抱いたその毛皮は、ふかふかとあたたかくて。
きゅう、と力を込めた右腕を、振り払うようにがふりと噛まれて。
痛みよりも、骨を砕かれる感覚が、体中に響いて。
そうして、間近に見えた赤い瞳。
この持ち主に食われることを、アスランは、酷く幸福だと思った。
穴から、死体が落ちてきた。
シンは、むっくりと起き上がり、そこへと急ぐ。
別に、急がなくても取られる心配はないけれど、上手くすれば、まだあったかい肉が食える。
肉は、殺したてのあったかいやつが美味いと思う。
冷たくなってすぐが一番いけない。
そうしたら、また柔かくなるまで待てばいいけれど、でも、やっぱりあったかいのには劣る。
そう思って覗き込んだ「死体」は、まだ十分にあたたかかった。
開いている目が乾いていない。きっと、殺したてだ。
手足も頭もすべて揃っていて、美味しそうだ。
そう思って、シンが涎を飲み込んだ時だった。
「死体」の表情が、ふうっと変わった。
柔かく笑んだ翠。その色が、シンの遠い記憶を呼び覚ます。
そうだ、これは、湖水の翠。
家族と暮らした、妖精の里の麓、どこよりも綺麗な湖。
あたたかい記憶に重なるように、あたたかい両手がシンを包んだ。
あ・・・
その時、シンの背筋を駆け上がったのは、いっそ、恐怖に近いほどの強烈な欲求だった。
生き物の根源に繋がる、衝撃。
これを。
ぜんぶ、俺のものにしなくちゃ。
丸ごとぜんぶ。
俺の、ものに。
ほとんど反射で口が開き、捧げられた腕を噛み砕く。
溢れた甘い血。
笑う翠。
しかしすぐに、その瞳は閉じられて。
あたたかい腕は、シンの唾液を引いたまま地に落ちて。
ぼろ、と。
シンの赤い瞳から、長く忘れていた涙が、こぼれて落ちた。
国のために。
父のために戦うのが、正義だと思っていた。
戦って勝つことが、正義だと、思っていた。
だから、戦って戦って戦って。
そうして戻って。
自分が、罪人になっていることを知った。
最後に見た父の目は、ただ、冷たく自分を見下ろしていた。
痛い。
激痛に、眠りを破られた。
体中がずきずきと痛むけれど、右腕からが一番酷い。
動けるか？
戦えるか？？
そうして、とりあえず目を開けたアスランの視界には、いっぱいの、黒い毛皮だけが見えた。
「ぁ・・・・」
顔を上げる。首も痛い。
とたん、赤い瞳と目が合って、アスランは今の状況を把握した。
俺は、棄てられたんだ。
アスランは、馬ほどもある大きさの、黒い獣の腹の下にいた。
こいつは、遠目に見たことがある。
地獄の獣。
生きた兵器。
ああ、なんだ。
俺と同じ。
「・・・食わないのか？」
でももう俺は、廃棄されて、ただ食われるための肉なのだ。
そう思うと、気が楽だった。
愉快でさえ、あった。
もう、戦う必要はない。
動く必要さえない。
自然と笑みが洩れる。
早く、食べてくれたらいいのに。
獣はくるくると唸ると、鼻先をアスランの頬に押し付けた。
生暖かい獣の息。肉を食う生き物の、唾液の匂い。
それはすぐに右腕に移り、そこに鋭い牙がかかった。
噛み砕かれた傷に牙が食い込み、新しい血がじわりと湧き上がる。
しかしそれはすぐに離れて。
そうして赤い瞳でアスランを見下ろすその獣は、まるで、溶けるように小さくなった。
見上げる大きさだった毛皮が、アスランよりも幾分小さい、人の肌へ。
その光景を、アスランは、ただ、ぽうっと見ていた。
「手、出せよ」
少年の姿になった獣は、その姿に相応しい少年らしい声で。しかし変わらない赤い瞳で、アスランを見下ろしていた。
「・・・？」
言われるままに、まだ動く左手を上げると、少年は「違う！」と癇癪を起こす。
「あの時みたいに、ぎゅってしろって」
あの時、って。
わけがわからず首を傾げると、少年はぐいぐいとアスランの傷ついた両手を引いた。
「痛・・・・」
どうやら、麻痺していた痛覚が戻ってしまったらしい。
しかし彼は苦痛の声など意にも介さず、自分の裸のままの背中に、掴んだ腕をまわさせた。
「しろ！」
「・・・・ああ」
彼が何を要求しているのか、やっとわかったアスランは、寝転がったまま、彼の背中を抱いてやり。
しかし、噛み砕かれた右手は、少年が離したとたん地に落ちて。
「両手だってば！」
がなる声が傷に響いて、わずかに眉をしかめた。
「・・・・無理だ」
「なんで！」
なんでって。
「すまないが。感覚が・・・ない」
激しく痛む右腕は、しかし、噛まれたその先には感覚がない。
恐らく、神経が断裂したのだろう。
もう、この右手は動かない。
これは、じきに壊死するな。と、アスランは長い従軍経験からそう思った。
もっとも、俺はすぐにこの獣に食われるのだから、そんなことはどうでもいいのだけれど。
うー、と唸った少年は、今度は落ちた右手を拾い、それをぺろぺろと舐めはじめた。
噛み砕いたのは、お前なのに。
そう思うと、なんだか可笑しい。
くつりと笑ったアスランは、すぐに苦しく息をついて。そうして、わずかに顔を上げ、少年の赤い瞳を見上げた。
「・・・ダブル？」
しかし、あの黒い姿は、深山に住むというケルベロスだ。人と獣、二つ姿を持つ、４種１０属のダブルには含まれないはず。
「・・・人に知られちゃ、いけないんだ」
少し情けない声で言った彼は、しかしすぐに噛み付くように。
「でも、アンタここに落とされたんなら『死体』なんだろ。ならいいんだ。俺の、餌なんだから」
「・・・・なら、早く食え」
そうして、早く終わらせてくれ。
人の姿を取っても、彼の牙は、白くて鋭くて綺麗だった。
生きながら食われることに恐怖はない。
終わりへと続く苦痛は、いっそ慕わしくさえあった。
しかし少年は、むっとアスランを見下ろして。
「餌のクセに命令すんなよ」
そうして、顔を近づける。
「俺の餌なんだから、俺の言うこと聞けよ。・・・さっきみたいに、また、しろ」
「・・・・俺は餌なんだから、食われるのが仕事だ。わかったらさっさと食え」
力なく体を投げ出して、身動きもままならないというのに。なんで、こいつはこんなに偉そうなんだ。
思ったシンは、しかしなんだか悲しくなった。
あったかい体。
あったかい腕。
ここに、あるのに。
今ならわかる。
彼に抱かれた時の衝撃は、生きているものへの慕わしさ。
ずっと寂しかったシンは、凄く凄く、この存在が欲しかったから。
だから、結果など考える間もなく。
食べて、そうして自分のものにしてしまおうとしたのだ。
「うー」
赤い瞳から、ぼろ、と、涙がこぼれ落ちた。
泣くことを思い出した瞳は、酷く涙もろくなっている。
ぐしぐしと泣く少年を見上げたアスランは、何故か自分が苛めたような罪悪感に襲われた。
「・・・泣くなよ」
「泣いてない」
「泣いてるだろ・・・」
仕方なく、痛む左腕を、片方だけでもと思って伸ばす。
抱いた少年の首はあたたかくて、なんだか奇妙な心地だった。
涙に濡れた頬が擦り付けられ、少年はそのままじっとしていた。
「・・・・もう、いいか」
アスランが、体の痛みに耐えかねてそう声を掛けるまで、ずっと。
「良くない」
「痛いんだよ・・・」
「食ったらもっと痛いんじゃないの？」
「殺してくれるんなら、我慢するさ」
「うーー」
唸った少年は、それでもやっとアスランを離して。
食われるんだろうと思っていると、しかし彼はアスランの胸に走った裂傷を、ぺろぺろと舐めはじめた。
「・・・・？」
アスランは、不思議そうに首を傾げ、それに気づいた少年は、唾液の糸を引きながら、血に汚れた胸から口を離す。
「食べない」
「何故だ？」
「だって、食べたらさっきのしてもらえなくなるだろ」
そう、当然のように言う少年に、アスランは言おうとした。
『俺は、死にたいんだ』
それでも、そう言えば、また彼が泣くのはわかっていて。
アスランは、なんだか泣く子供は苦手だったから。
「・・・・好きにしろ」
そう呟くように言うと、痛む腕を放り出す。
父に棄てられ、国に棄てられ。
この命も、じきになくなるだろう。
なら、それまで。この少年に付き合ったってかまわない。
でも。
「・・・食わないなら、頼みがあるんだが」
「何」
「水・・・・」
カラカラに乾いた喉でそう訴えると、少年は、アスランを体ごと、側に流れていた地下水脈へ放り込み。
図らずしも死にかけたアスランを抱いて、シンは結局ひんひんと泣いた。